新見市 芋原地区 現地訪問
(08.4.30訪問)

天銀山南側に芋原地区がある。阿哲郡誌には「竪金山(芋原)」に鑪場あるいは鍛冶所があったとの記述あり。吉川地区には、以前訪問した金くそ散在地がある。芋原で本当にたたら製鉄がおこなわれていたのか知るために現地訪問し、お話を伺った。

金くそ散在地が一箇所、見つかった。
芋原地区では、突然の訪問にもかかわらず、長時間お話を聞かせてくださった上に、金くそ散在地まで案内して頂いた。

(聞き取り内容)
(かんな流しについて)
1)この地区で、鉄穴流しを行っていたかどうかは知らない。鉄穴流しの話は聞かない。
2)小学生の頃に、伯耆の国へ行ったときに「木の樋」に水を流していたのを見たことがある。巾20cmくらいの樋だった。何をしているのか子供心に不思議に思って聞くと、砂鉄を取っているとの事だった。子供の頃のことでそれ以上は覚えていない。(大倉山ふもとの神戸上地区のようだ。大正の終わり、昭和初めの頃鉄穴流しをやっていたのだろうか。TKN)
3)吉川上流の溜池は、鉄穴流し用の貯水池ではない。純粋に、農業用水確保のために作った池である。(これを聞いて、池の調査中止。)

(たたら製鉄について)
4)金くそは、家の前の川の中にたくさんある。谷の奥に「かじやだ」と名前のついた田が5枚あって、その場所にその昔「たたら集落」があったと聞いている。
5)谷の奥には、堤(貯水池)がある。(未確認)
6)吉川のたたら場(以前に訪問したところ)は、このあたりでは規模の大きいものと思う。

(そのほか、芋原地区のこと、街道のことなど)
7)芋原地区は、江戸期より「伯耆街道」(伯耆往来)の宿場として栄えたところだ。遊郭もあったと聞いている。
8)石の馬頭観音(高さ40cm)がある。安政5年の文字が見える。:安政5年は1858年。
9)芋原には今も昔の街道が残っている。「あかさかみち」と呼んでいる。昔の街道筋は、今の道路とは違った場所、山の中腹を通っており、山に入ると街道の跡を、かなりの距離追っていける。茶店のあった場所が残っている。
(すぐ近くに巾5〜60cmくらいの少しくぼんだ山道が数m残っていた。人がやっと通れる程の巾しかない。山の中を、荷物を背負って歩くのは、並大抵ではなかったろう。・・・・・・街道と言っても、一歩宿場を離れると山道で肩にあたる小枝を払いながら進んでいくのが現実だ。)

このあと、金くそがあると言う場所へ案内してもらった。(なしの木が数本。白い花がきれいだった。)
川の中に金くそが転がっている。大きさ20〜30cm。
今は作っていない田のあぜに、金くそが数多く転がっていた。5〜20cm。粘土状の土がついた金くそ、粘土のつかない金くその2種類あり。


金くそ (田のあぜで拾ったもの、片側に土がついている)
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高梁川沿いの谷内(たにうち)から、木戸、芋原を通り、天銀山と三井山の間の峠を越えて三坂まで行く山道が、その昔、「鉄の道」だった。
次回は、山の中に残るという「伯耆街道」跡をトレースして歩く予定。

(08.5.3 記)




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