鏡野町越畑地区 現地訪問
(08.5.28、08.6.7 訪問)

5月28日、6月7日と、越畑地区を訪問し 土地の方に、たたら製鉄のことをお聞きした。世代が替わり、たたら製鉄のことは忘れ去られようとしている。

越畑地区のたたら製鉄は、江戸時代初期に始まったが、その後中断。江戸末期に再開され、明治初期までおこなわれた。(「美作国越畑村の鉄山業について」宗森英之 たたら研究12 1965年 P46〜51)

(越畑地区の製鉄遺跡)
正宗地区にたたら記念館がある。1988年前後の開設時の当地区の製鉄遺跡マップである。
@〜Eは、画像上で記入したもの。


越畑の製鉄遺跡マップ(1988年前後) 20年前は、たたら跡と明確に分る場所が、今はわからなくなりつつある。
@〜B たたら跡(確認できず) 
C 鉄滓 (場所、確定できず)
D 雰囲気として、金くそがありそうな感じがして行って見たが、何もなし。
E 木地師墓 (夫婦の墓のようだ。小椋の文字が読み取れる。)

(聞き取り内容)
1)越畑でのたたら製鉄跡は3ヶ所ある。(マップの@、A、Bのところらしい。らしいというのは、聞き取りでは位置がだいたいの所しかわからないため)。Aは、大きな漆の木があるところで土地の人は近寄らない。Bは、昔金くそ山があったが、道路改修で今は分らないだろう。
2)出口(でぐち、いでぐち)は、大地川の出口に当たるから。
3)越畑の一番奥の家が「鉄山(てっさん)」と呼ばれている。その横に、金屋子神社がある。
4)鉄穴流しのことは聞いたことがない。
5)越畑の鉄は、奥津の三ツ子原へ運んでいた。
6)越畑も老齢化が進み、今は小学生がいない。若い者は、津山へ出て行き、たとえ越畑に残っても、勤めは津山。田植えと、稲刈りの時期は息子、娘が帰って手伝ってくれる。昔は、勤めに出なくても、田と炭焼きで暮らしがなりたった。体が動くうちは、田を続ける。一年やめると元に戻らない。(といった話を交えながら、たたらのお話を伺った。)


金屋子神社 祠の中に、木と金くそがご神体として祭られている。回りにも20〜30cm大の金くそが置かれている。


一面の笹原。「毛無し」状態。・・・・潅木もなく、どうしてこういう状態になるのかわからない。
鉄穴の山崩しと思ったが、違うようだ。木を取り尽くして、牧草地→笹原となるのだろうか。
マップのCの少し下。
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(泉山周辺の金くそ)

泉山 笠菅峠登山口と、峠駐車場の間の林道で拾ったもの。(中央の3〜5cm大の7個)
このあたりにたたら場所があったのか、林道造成時に道に敷くために他から持ってきたものか不明。


尾路地区から、泉山北面を登る林道の途中で拾ったもの。3〜5cm大。
このあたりにたたら場所があったのか、林道造成時に道に敷くために他から持ってきたものか不明。
このあたりの地形は、鉄穴流しのために山を削った跡と思える「成る地状」。

(08.6.9)




岡山のたたら製鉄

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