阿哲畜産史に見る芋原集落の繁栄(その3 明治時代)

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阿哲畜産史
第三篇 明治時代  第三章 鉄山業 
「北部の鉄山
明治六年の統計表に示す如く各村に鑪鍛冶屋は経営されて、むしろ江戸時代よりも鉄山業は盛んであったともいえるのである、神代川流域のところで述べたように鍛冶屋経営者が増加したようである。一例に過ぎぬが芋原の問屋は伯耆で製鉄を経営した。上市には鉄山家が製鉄や鉄の売買をなし、また鋳物屋がある。新見にも鉄山業者があるように、資本のあるものは新しい時代に応じて、鉄山業に投資をした。
しかし、外国貿易が発達するに随い、輸入鉄が多くなっては、砂鉄を原料とする製鉄業は採算がとれなくなって、年々衰頽の途を辿ったものであった。(以下略 下線はTKN) 」
(P214)


明治六年鈩之所在地
(P212)

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明治六年には、三坂、芋原近辺の鑪鍛冶屋はすでになくなっていたようだ。
芋原の問屋としての地位も低下したことだろう。

参考 阿哲郡における近世、明治、大正期のたたら操業の記述 
    伯耆往来(その4) (明治になっても、足立の下(しも)は谷が狭く通ることが出来なかった。
                三坂、大忠あたりの人は、天銀山と三井山の峠を越え、芋原を通って
                山道を上市まで出た。)

(09.4.20)




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