伯耆往来(その2)

(阿哲郡誌)
昭和4〜6年発行。
下巻 第9章 運輸交通 第2節 道路 二、明治以降の交通線 

抜書き
二、明治以降の交通線 
「 往時は力めて田畑の面積を減ずるを恐れ迂回を厭わず、急峻なる坂路も意とせず、谷を渡り坂を越え。人馬共に苦酸をなめしも、明治維新となり、文化の発達は到底当時の交通状態を以て甘ずべきにあらず。」

江戸期の道に関しての考え方がうかがえる。
下の図は、「阿哲郡史」 上巻に挟み込まれている地図の部分である。昭和初期に作った地図ではあるが、かっての伯耆往来の道筋は当時のままではないかと考えて掲載した。
地図としては正確で、カラーのため見ていて楽しい。

1)谷内から、木戸、芋原を通り三坂に抜けているのは、「明治以前」の伯耆往来の説明と合致。
2)谷内から芋原までは、町村道となったが、道幅がいかほどのものになったかは不明。道路は、大幅に改修され、馬車・自動車通過も可能となった由。現在でも、一車線で全線舗装されているわけではないので、当時も狭い山道であったと思われる。
3)芋原・吉川間、吉川・三坂間は、町村道となったが、整備はされなかったようだ。特に、吉川・三坂間は 今の荒れた状態から考えて、車が通れるようにはならなかったように思える。
4)大正の終わりに、鉄道が開通したしたため、山を越える伯耆往来は物資輸送の役目はなくなってきた。


阿哲郡明細図 (阿哲郡誌 上巻 綴じ込み地図)
赤点線は、後から書き込んだもの。少し見にくいが、町村道を示す赤い細線の上をなぞってある。

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谷内から、芋原・三坂へのかっての伯耆往来の道筋は、ほぼ確定できた。現在の道路にほぼ沿ってあったのだろうが、道路改修で消えてしまった所、新しい道路が伯耆往来をそれて作られたため残った所など様々である。昔の人が荷物を担いで歩いたり、馬を引いて歩いたりした道筋を確定できたらいいだろうなあ、と思っている。

平成5年に岡山県教育委員会が、上市から、千屋そして谷田峠までを新見往来の部分として踏査している(岡山県歴史の道調査報告書 第九集)。今回述べた、谷内から芋原・三坂ルートは踏査されていない。江戸期には、鉄の路としてメジャーなルートだったの思うのだが。

少しづつ調べてみよう。・・・いくぞ、へなちょこ調査隊!

(08.5.4)




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