伯耆往来(その4)

伯耆往来は、鎌倉時代から戦国時代はどうだったか。

08.6.18 芋原・吉川地区訪問
聞き取り内容
1)カタカネ は、上吉川の金くそ散在地あたりを呼ぶ。小字でも、屋号でもない。今は無人だが、そこにある家のことを「カタカネの○○さん」と呼んでいた。
2)カタカネ、いしきの 地名は今に残っている。フシヤ谷 は 知らない。
3)成松、得永などの 名の名前は聞いたことがない。
4)西川の川沿い、上市から足立への道は、鉄道が通るようになって初めて通れるようになった。明治になっても、足立の下(しも)は谷が狭く通ることが出来なかった。三坂、大忠あたりの人は、天銀山と三井山の峠を越え、芋原を通って山道を上市まで出た。
5)つい最近まで、芋原集落の下に カタカネで製鉄をしていた人の「親分」(分限者)の家があった。今はない。(最近とは、いつ頃のことか聞き漏らした)
6)芋原集落は、かっては田の向こう側、50m西側にあったとのことである。家がないのに、田の名前が家前だったり、家横だったりするのはそのため。(明治よりも前らしい)

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(新見庄畠取帳に見る鎌倉時代の様子)
「備中国新見御庄 文永八年辛未領家御方正検畠取帳」(鎌倉末期から戦国時代の東寺百合文書)

文永八年(1271年)、新見庄の領地を「下地中分」するために田畑の検地を行った。現在の谷内から、吉川にいたる道筋沿いの地名、田畑の様子が分る。新見庄ではそれまで、田畑が盛んに開墾されてきた。


棚田 (数年前から作られていない。)

芋原は、吉河里の一部であったようだ。今の所に集落があったかどうかははっきりしない。
芋原を通り、上市へ抜ける山道は 中世より、京都との人の往来、年貢などの物資を運んだ道であった。芋原集落がその頃にあったかどうかは不明。西吉川、東吉川、フシヤ谷は地名としてあるが芋原集落を示す地名はない。

芋原地名は、時代が下って「備中国絵図」(元禄元年頃(1688年頃))に、見ることが出来る。この頃になると、吉川村、芋原村・・となっているので、独立した集落とみなされるようになったのだろう。往来筋の宿場として発展したのか、たたら製鉄の集落として発展したのかは不明。

新見庄は平安末期に成立して以来田畑が開墾され米その他の作物が作られると同時に、鉄、漆、蝋、紙などの特産物が作られた。いわゆる「伯耆往来」はこれらを、上市、さらには京都へ運ぶ道であった。


「備中国新見御庄 文永八年辛未領家御方正検畠取帳」に見る地名
位置は、「新見市史(新見市史編纂委員会編):付図1 文永八年二月備中国 新見庄名分布 その1」に従った。
(数字は、各地の標高を示している。)

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(08.5.20)(08.6.20)




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