近世以来における岡山県内鉄山業の概観(有力鉄山師の調査)

出典  たたら研究 第3号 (1959年9月) (合本 たたら研究 第1巻) 
「美作西北部の鉄山業と地域社会の変貌(1)」 定本正芳 P1〜 から抜書き

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第1章 近世以来における岡山県内鉄山業の概観
 近世以降岡山県内鉄山業は、中国山地沿いに集中して、盛んに稼業された。その分布をみるに大略三つの中心が存在していたようである。すなわち、

1. 美作北部−上斎原を中心とするもの
 鉄山の開始年代は不明であるが「美作地誌」によれば産鉄の最も盛んであったのは、徳川末期で、当時坊主原、金石、人形仙などで津山藩の藩営鉄山が存在していた。藩営鉄山の機構がいかなるものであったか、詳かでない。徳山文書によって、問屋商人或は、有力な鉄山師を藩鉄山の支配人に命じ経営していたことが知れるのみである。
 明治以降は民間人によって、盛んに稼業された。「北条県史」によれば、明治7年、8年、上斎原村、出羽村などで10箇所の鉄穴があった。
 これらは、明治20年代に休山になったが、大正初年には、一部が再び稼業を始めている。
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2. 美作西北部−湯原町・美甘村・新庄村を中心とするもの            
 徳山文書によって、ほぼこの地域の鉄山業のOutlineを知り得る。この地域で活躍した鉄山師は、川上村の徳山家、湯原町仲間の湯浅家、社の狩谷家、釘貫小川の手島家、藤森の進家、新庄の吉川家、高田の山田家、久世・勝山の問屋商人、根雨の近藤家などがある。
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3. 備中北部−新見市千屋を中心とするもの
 千屋を中心として、上刑部・新郷・菅生・上市・矢神・神代を含む。
 「阿哲郡史」によれば、安永年間において、すでに、実村・花見村12ヶ所、井原村・釜村・千屋村12ヶ所の鉄穴があった。この地域で活躍した鉄山師としては、実の太田家が最も有名である。その他花見の池田家、井原の安藤家、成地の太田家、根雨の近藤家などがある。
 なおこの地域は、新見及び松山の藩営鉄山が存在していたが、その機構は全く不明である。

以下 第2章 美作西北部の鉄山業 −徳山家の鉄山経営
に続く。
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上の3地域は、それぞれ 吉井川流域、旭川流域、高梁川流域に対応する。
近世期の鉄穴稼業の実態を知るための資料に古文書がある。まずは、どういった古文書がありそうか調査。

岡山県立記録資料館 の所蔵古文書の中に、1)阿賀郡実村太田家文書、2)西々条郡上斎原村三船家文書 がたたら関係古文書としてあった。1)は、有名。2)は 上の有力鉄山師の中にも名前がない。

(08.4.21)




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